マツキの寒天干場

株式会社マツキの歴史と願い
1939年の創業以来、寒天ひと筋
みなさまの健康のために上質な寒天をお届けします

 

諏訪地域の寒天産業が最盛期を迎えた1939年に創業。
以来、三代に渡り寒天づくりに勤しみ
浮き沈みもあるなかで、上質な寒天を求めて技術を磨き
お客様のニーズに合う商品をご提供してきました。
その精神を軸にこれからも邁進してまいります。

寒天の最盛期に創業

第二次世界大戦が勃発した1939(昭和14)年、茅野の地において初代・松木栄(さかえ)が創業したのがそのはじまりです。農業を営んでいた初代は事業の拡大を図るなかで、寒天産業の道を選びました。当時、諏訪地域では200社もが寒天製造に勤しんでいたといいます。戦時中は半分にまで減ったものの1970年代には8割までに復調し、わたしたちも1966年(昭和41)年には製造場を操業、1986(昭和61)年には株式会社マツキを設立するに至りました。

株式会社マツキの歴史

どんなにつくっても足りない時代

天然の角寒天をいくらつくっても足りないという時代がありました。「固める」という機能を持った食材がほかになかった頃のことです。保管庫も足りず、養蚕用の繭蔵が寒天蔵に転換されていきました。欧米のほか当時のソビエト連邦など海外にも多く輸出していたこともあります。しかし、どんなに需要があろうとも、天然角寒天は冬にしか製造できません。「一年中、安定してつくれる技術があったらいいのにな」と言って、初代・松木栄(さかえ)は亡くなりました。

株式会社マツキの歴史2

天然の角寒天・糸寒天、そして粉末寒天まで

その言葉を心に刻んでいた2代目の松木尚(たかし)は、伯父の松木勝と祖父の松木栄が共同で創業し、当時自身が社長を務めていた別会社「松木寒天産業株式会社」で粉末寒天の製造場を立ち上げます。利便性が高い粉末寒天の台頭により、わたしたちの主軸である天然角寒天・糸寒天の需要が一変したことは確かです。しかし、角寒天、糸寒天、粉末寒天は、それぞれに使い方や特性が異なるため、その特長をふまえてニーズに合わせてご利用いただければ本望です。

角寒天、糸寒天、粉寒天の集合写真

天然寒天、苦難の時代

1993(平成5)年に松本市で開催された信州博覧会で来場者に寒天を販売したところ大変な人気ぶりで、寒天の可能性を感じたのとは裏腹に、天然角寒天・糸寒天の市場での需要は減少の一途を辿っていました。さらに、宅地化や高速道路をはじめとした交通網の整備を背景に、寒天庭として使用できる水田も年々減少。わたしたちも博覧会と同年、諏訪市湖南に製造場と寒天庭の移転を余儀なくされました。さらに追い討ちをかけるように衝撃を与えたのは、渋谷の若者を対象に行なったアンケートの結果でした。そのほとんどが天然角寒天を知らないという実態が明らかになったのです。

株式会社マツキの干場の様子

お客様と寒天とマツキをつなぐ「トコロテラス」

「まずは角寒天を知ってもらうところから」。そうして3代目・松木本(もと)が取り組んだのが2015(平成27)年に開店したショップ&カフェ「トコロテラス」です。カフェではところてんを始め、寒天を盛り込んだランチやデザートを提供し、ショップでは寒天を使った羊羹やあんみつなども販売します。「見て、食べて、寒天がもっと身近に」のコンセプトの通り、多くのお客様が寒天にふれるきっかけをご提供できる場になったとともに、わたしたちにもお客様の声が直に届くようになりました。このことは、よりよい寒天づくりに確かに還元されています。

トコロテラスの外観

この素晴らしい食材を、多くの人に届けたい

近年、天然角寒天・糸寒天の健康に関わる高い機能性が明らかになり、注目が集まっています。実際に「寒天を食べて体調が良くなった」という声を数多くのお客様からお聞きするなかで、わたしたちは、天物の恵みである海藻に含まれる貴重な栄養素を、お客様の食と健康につなげ社会に役立つという使命をこれまで以上に強く抱くようになりました。同時に、日本で唯一の天然角寒天の産地として受け継いできた技術を後世に引き継ぐ使命もあります。皆様の健康と、食文化、地域文化を守るべく、わたしたちは寒天をつくり続けてまいります。

株式会社マツキの代表取締役社長

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